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「高度400km到達。アローン、アシュケナージ、アキラ、生態信号に問題ありません」
モニターを覗いていたヨーコが言った。コンピュータ設備といくつかのモニターが並ぶだけの飾り気のない室内。数人の通信員からちょっとした拍手が起きたものの、立ち上がった男が右手を上げたことで、すぐに静かになった。
「OK。予定通りテザー(ワイヤー)降下開始」
デイヴィッドが発した指示が司令室内にこだました。その言葉通りに通信員がキーボードを叩く音がした。インドネシア共和国イリアンジャヤ州ティミカ近郊の広大な敷地。そこに建つ幅一キロに渡る巨大な建物も宇宙から見れば小さな点でしかない。海に向かってV字に開く構造の受紐装置でテザー(ワイヤー)をキャッチできるかどうか。これからの90分にプロジェクト成功の可否はかかっていた。
「ドキドキしますね」
ヨーコが振り返ってデイヴィッドに話しかけた。
「何、最初から成功するとは思っていないさ。未だAチームだからね、実験みたいなものさ」
デイヴィッドは笑顔でウインクした。
「アキラ起きろ」
肩を叩かれてアキラが目を覚ました。
「ただ乗っているだけとは言え、宇宙に来た途端に眠れるものかよ。どういう心臓しているんだろうな」
アシュケナージがアローンに話しかける。
「神経を休めていたんだろう。ティザーの接続は針の穴に糸を通すようなものだ。しかも先端は400キロも離れているんだぜ。繊細な操作なら日本人が最適さ。俺達はアキラに任せておけばいいんだ。気楽なものさ」
アローンが笑いながら返事をした。
「言えてる。輸送機での接続訓練でもアキラに勝る奴はいなかったからな。大船に乗った気分でいられるぜ」
「気安く言ってくれるぜ。訓練と言ったって高度数百メートルのお遊びみたいなものだったじゃないか。今は高度400キロ。同じに考えるのがどうかしてる」
アキラは首を傾げて不満を口にした。
「テザー先端の高度は15,000メートルだ。気候・視界共に良好。電波時差2.63ミリ秒、接続まであと15分。後は頼んだぜ」
アローンはそんなアキラのつぶやきなど聞こえないように現況だけ伝えてくる。アキラは苦笑するしかなかった。
「接続したら、その後はお前の仕事なんだからな。俺に言わせればそっちの方が大変だよ」
「下からの指示に従って上昇するだけなんだから楽勝!」
アキラの言葉にアシュケナージは親指を立てて答えた。そのやりとりを合図にしたかのようにアシュケナージが立ち上がり、第一エレベータが搭載されている先端施設に移動し始めた。
「もう行くのかよ。テザーが上がって来てからでいいんじゃないのか?」
アローンがアシュケナージに声をかける。
「横で手持無沙汰にしているしかないなんて、なんか落ち着かないんだよ。間が持たないのさ」
アシュケナージは無表情に答えた。
「そうか、なら仕方ねーな」
そもそも止める気があったわけではなかったため、アローンもこだわりなく返事をした。
「じゃあな」
アシュケナージはアローンとアキラに背中を向けたまま片手を上げた。
「おお、任せろ」
「またな」
「そりゃねえだろう」
三人は目を合わせることなく笑った。
遡ること、数年。
「何もこの場所に施設が必要なわけではないのですよ」
会議の席上でデイヴィッドはこの場にいる誰もが知っている数式を指示棒でたたいた。
「デイヴィッド博士、改めて言うまでもないだろう。そこに無ければ落ちるか宇宙の深淵に飛び続けるか、どちらかだろう」
高名な老物理学者が異論を唱えた。
「中間設備は高度400キロでいけます。それならテザーも現在の強度で問題ない」
デイヴィッドは言った。
たった1キログラムの物を運ぶために1万ドルの費用がかかる。それがロケットによる宇宙開発である。宇宙ステーションから紐を吊り下げて地上から物資を引き揚げる宇宙エレベータが完成すれば、その費用は1/100。宇宙はぐっと近くなる。赤道上、高度36,000キロに位置する静止衛星。そこから紐を吊り下げていけば、やがて地上に到達する。その紐で資材を引張り上げれば、膨大なエネルギーの消費をすることなく資材を宇宙に運搬できる。だが、紐にかかる重力により、衛星は徐々に地球に引張られやがて落下する。その為、地上とは逆方向に同じ距離分だけ紐を伸ばすのだ。そうすれば、引力と遠心力のバランスが取れて衛星が地上に落ちることはない。つまり地上から36,000キロの高度に浮かぶ衛星から両方向、合計72,000キロの真直ぐな紐を宇宙に張るということになる。これが宇宙エレベータの原理である。この方法には問題点があった。紐にはそれ自体に重さがある。地上から衛星までの36,000キロの長さとなると、紐の重さもとてつもないものになり、紐そのものが自らの重さに耐えられず途中で切れてしまうのだ。耐えられる強度をもつ紐を作ることは現在の技術では不可能である。最新のカーボンナノチューブ技術をもってしても24,000キロの長さがせいぜいなのだった。
「24,000キロ毎に接続施設を設けます。つまり地上400キロ、24,400キロ、最終施設は48,400キロ。一本の紐をただ伸ばすのでなく、2か所の中継点を設け、最終設備をこれまでの静止衛星高度より高い地点に作る。その設備重量がもたらす遠心力によって、宇宙エレベータの定点静止は充分に可能です」
デイヴィッドは新たに表示された図を指し示した。
「なるほど。ただ静止させるだけなら確かに可能かもしれないな。だが、従来の静止衛星軌道である36,000キロでさえ、とてつもない距離なのだぞ。そこからさらに12,400キロ。そんなに遠くにおいやられた飛行士は、どのようにして地上に戻って来るというのかな?エレベータで移動となれば時速100キロで移動したとしても20日以上かかってしまう。ロケットを使うというならば、結局のところ、これまでの宇宙開発と何ら変わらないではないか」
また老物理学者が手を挙げて質問した。
「戻る?何故?そこが彼らのフロンティアなのです。戻る必要などない」
国際会議場は静まり返った。あまりの衝撃に誰一人言葉を発することができなかったのだ。
「PROJECT BABEL、そう名付けました」
説明終了。そう言いたげにデイヴィッドは手元の資料を閉じた。
「人を何だと考えているのだ。いや、それだけではない。神の領域に足を踏み入れるつもりなのか」
老物理学者の深いため息は、周りを取り巻く数人の科学者の耳にしか届かなかった。
※
- m:衛星の質量
- v:衛星の速度
- r:地球の中心からの距離
- G:万有引力定数6.673×10-11
- M:地球の質量
続く
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PROJECT BABEL a-1
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