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皆が寝静まったのを見計らって、チャドはゆっくり身体を起こした。丸い月の夜を選んでの行動開始だった。何せ、夜の間に移動するなら少しでも明かりがあった方が良い。山から見えた湖に続く川に行くには、他所の縄張りを大きく越えていかなければならない。以前山から戻る時に無事に帰って来られたのはチャドが縄張りの外に出ようとしているからであって、普通ならとことん最後まで攻撃してくるはずだ。縄張りの真ん中を突っ切って行くには、連中が眠っている夜を狙っていくしかない。そうチャドは考えた。
仲間が眠っている場所を離れると、チャドは木に登り枝を伝ってひたすら川を目指した。音を立てて他所の集団に発見される危険を考えれば、枝を伝っていくより下を歩く方が良い。チャドが下を歩かないのは猛獣にやられるのを少しでも防ぐためだ。猛獣には草原にいるものと森に潜むのもがいる。森の中にいる猛獣は夜に狩りをする。
仲間で集まって暮らすというのは、猛獣にやられないようにする為というのが理由としては大きい。大勢で猛獣と戦うためではない。どのみち猛獣を追い払うのは難しいのだ。では何の為に大勢で固まって暮らしているのか。猛獣は一度に全てを食い尽くすことはない。大勢で暮らして沢山子供を作れば、多少の犠牲があっても群れの存続に対して影響を及ぼさない。そのための集団生活だった。森も安楽に暮らせる場所ではない。草原よりは食べる物が手に入りやすく、隠れる場所が多い。ただそれだけのことなのだ。
「きえーっ!」
鳥の鳴き声が聞こえた。考えるのを止めてチャドは先を急いだ。
「木の又に隠れる鋭い牙を持つ奴に気を付けなければ」
時々聞こえる他の動物の鳴き声が、危険な奴らの居場所を知るのに役立った。チャドは耳から入ってくる気配に意識を集中しなが、枝から枝に飛び移って進んで行った。
「この辺りは危ない」
他所の集団の匂いを感じてチャドはやや迂回する方向を選らんだ。少し離れてから身体を休めるついでに動きを止めた。息をひそめて音に集中する。追手の気配はなかった。
「大丈夫だ」
一息つくとチャドはまた動き出した。
朝になった。
チャドがいなくなったことに気が付いて、チャドを慕って普段一緒に食べ物を探している若い者が騒いでいた。
「山に行くって言っていたか?」
「いや、何も言っていなかった」
ボスは少し離れたところから黙って成り行きを見守っている。将来自分の地位を脅かす力を持つ者として、彼はチャドを恐れていた。いなくなるのは好都合だったのだ。
「追いかけよう!」
湖のことをチャドから聞いていた若者が声を上げた。
「待て」
長老がゆっくりと立ち上がった。
「まれにいるのだ、旅に出るしか無い者が」
珍しく大きな声を出した長老に皆が黙り込んだ。
「行かせてやるのだ。いずれにせよ、チャドが戻ることはないのだから」
朝もやが立つ中、チャドは森と草原の境目に佇んでいた。足元に川が流れている。そおっと手を伸ばして流れる水に触れてみる。冷たさに一瞬手を引いた。だが、安全だとわかると今度は手のひらを水に浸してみた。夜中にずっと枝を渡り続けてチャドは疲れ切っていた。水の中で震える手から疲れが抜けていくような気がした。今度は足を浸してみた。疲れた身体の火照りが一気に治まっていくのがわかった。足元を小さな動物が泳いでいくのが見えた。魚だった。爪を二つもつ小さな奴も動いていた。不思議な動きにチャドは魅入った。素早く岩を伝って動く、それは沢蟹だった。
「ここからは水の流れについていけば良いはずだ」
水が一杯貯まっているのが湖なのであれば、水の進む方向に行けば自ずと湖に着けるはずだ。チャドの考えは当たっていた。太陽の光が強くなり、靄が薄らいできた。チャドは川底の苔で足が滑るのに気をつけながら歩き出した。何のことはない。チャドはだた楽しかったのだ。
(つづく)
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