棚田の恋2-7.最終話「蛍の光」

棚田の恋

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数年が過ぎた。良太は相変わらず棚田に通い続けていた。米作りだけで生活するのはとうの昔に諦めて、工場勤めをしながらの週末農家。はじめは派遣社員だったものの、真面目に働く良太はいつしか正社員の立場を手に入れていた。毎週末田んぼに通い続けたおかげで、最初は所々畦が崩れ草ぼうぼうで荒れていたものの、今は見違えるようになっていた。小さいものの隅々まで手入れの行き届いた棚田は、美しさすら感じられるようになっていた。まれではあるものの、良太が田んぼで働いていると通りすがりに写真を撮って行く観光客すらあるのだった。ここまで雛を田んぼに入れて除草させる合鴨農法やらなにやら色々試してみたものの、排せつされる尿分が多すぎるのか、良太が求めていた味とどこか違っていた。結局良太は、水源となる森の滋養を高めることにした。杉が主体だった立木を切り、少しずつ広葉樹に置き換えた。それが正しいことなのかどうなのかはわからない。それでも、森には少しずつ木の実が成るようになり、小鳥のさえずりが棚田を包むようになっていった。赤とんぼがすいすいと飛んで田んぼの水に卵を産む姿も見られるようになった。小鳥と赤とんぼがいるということは、虫がいるということでもある。生き物が移り住み、暮らし、新たな生命が誕生し、生き、死んでいく。その中で、作物に必要な微量元素がもたらされるのではないかと良太は夢想した。そこには小さな世界ができつつあった。

それでも米の収穫量は相変わらず今一つだった。小さいながらも十段ある棚田であるにも関わらず、家族で食べるのがやっとの米。そう、良太には家族ができていたのだった。

 夏の夕暮れ、良太は工場勤務を終えて我が家に帰り着いた。

「ただいま」

玄関を入って中に声をかける。

「おかえりなさい」

陽子が台所から現れた。

「今夜、見に行くの?」

陽子が言った。

「うん、快に見せたいんだ」

良太は洗面所で顔を洗いながら返事をした。

「食べてからにする?」

「いや、あまり遅くなって快が寝不足になってもなんだから、今から行こうよ」

陽子の問いに良太は答えた。

良太と陽子には男の子が生まれており、既に三歳になっていた。

「快!お父さん帰ってきたよ。蛍を見に行こうって!」

陽子が二階に向かって声をかけた。

「おうおう」

階段を降りる大きな足音と、遅れて一段ずつトントンと降りてくる小さな足音がした。

「おお、お疲れさん」

除草隊の親方が快の手を引いて居間に現れた。

「蛍見に行くんだって?相変わらず米の量より蛍なんだものな」

親方が言ういつもの軽い皮肉に、良太は笑顔で答えた。

「快、蚊にさされないようにな」

親方は快のほっぺを両手でなでた。

「お茶とおにぎりでも持って行ったら?」

陽子の母の声が台所から聞こえた。

 

三人は手を繋いで坂道をゆっくり上がって行った。真ん中にいる快の足運びが三人の歩く速さだった。草を踏む足音と虫の声。懐中電灯の光一つの暗闇に怖がることなく、快は時折鼻歌らしきものを口遊みながら楽しそうに進んで行く。曲がりくねった道をいくつか超えると棚田が見えてきた。畦の草むらに光が見えた。

「お、いるな、懐中電灯消そうか」

良太が言うと陽子はうなずいた。怖がる快を肩車すると、良太は力強く坂道を登って行った。三人は棚田を見渡せる一番上の田んぼまで来て、振り返った。人の足音に、盛んに聞こえていたカエルと虫の鳴き声が鳴り止んだ。棚田は静寂に満たされていた。田んぼの水に月の光が微かに揺れている。その時、草むらに停まっていた蛍が一斉に空中に上った。いくつもの薄い黄緑色の小さな光が棚田の上をゆっくり点滅しながら飛んでいる。

「うわー!」

快と陽子がうれしそうに声を出した。快の指先が蛍の光を追っている。良太の肩に陽子の手が触れた。良太は隣にたたずむ陽子の顔をのぞき込んだ。楽しそうな快を見てほほ笑んでいた陽子が、視線を良太に移してうなずいた。良太も小さくうなずき返した。暗闇の中、棚田を見る三人を祝福するように蛍の光が乱舞していた。

 

「…て、嬉しかった」

微かに誰かの声がしたような気がして、良太は周囲を見渡した。陽子と快は変わらず蛍の光を目で追っている。

「ありがとう」

淡い光に乗った最後の言葉が、良太の周りを舞い散りながら消えていった。

(おわり)

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