棚田の恋2-5.田起こし

棚田の恋

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「運が良いよな」

春、小型のトラクターに乗って田起こししながら良太は思った。

「だめになりかけた田んぼを直してくれるのよ、トラクターくらい貸してよ」

陽子が除草隊の親方、つまり彼女のお父さんに掛け合ってトラクターを借りてくれたのだった。一枚一枚が小さな棚田とは言え、人力で耕すことなどできやしない。何しろ昔は牛や馬に犂(すき)を引かせて作業していたのだ。

「助かった」

良太は心の底から安堵した。

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棚田は陽子のおじいさんが亡くなってから数年間放って置かれたようだった。たった数年と言えど使われなくなった田んぼは、あっという間に自然に戻って行く。しかしさすがにご近所の手前体裁が悪いと、除草隊の親方は木についてだけは生えてくる度に伐採してくれていた。ご近所と言ってもこの辺りで山の上に田んぼを持っている人などそもそもおらず、誰かに見られる心配はほとんど無かった。ようは父親の田んぼを蔑ろにしていることに対する後ろめたさがあったのだろう。

「そうでなければ今頃、松林になりかけていたよな」

良太がこれまで目にした耕作放棄地は、だいたい数年で松などが生えて雑木林になっていたのだった。理由はともあれ、今こうして棚田を耕していられるのは陽子の助けがあってこそだった。幸福の女神とも言える陽子だったが、良太にとって彼女は既に何よりも大事な存在になっていた。

田起こしが終わると良太は水路から田んぼに水を引いた。本来はそのまま田んぼの土を均すための代掻きに移るべきところだ。けれど長く栽培していなかった田んぼの畦には穴が開いていることが多い。全部で十枚ある田んぼは、水を入れた翌朝には既に水が抜け落ちていた。穴の原因はモグラだったりオケラだったりする。モグラの穴なら見てわかるが、オケラの穴は水を入れてみないとわからないことがある。今回水を満たすのは見えない穴を見つけるためだった。穴を見つけては応急処置をしてまた水を入れる。その繰り返しだった。最終的には全ての田んぼで畦塗りする必要があることがわかった。畦塗りには水を含んでどろどろになった土が必要なので、本格的な修復作業は代掻き後になりそうだと良太は考えた。

「失敗しながら進むしかないな」

良太は、独り言ちるのだった。そもそも傾斜のある未舗装の、しかも狭い道から田んぼにトラクターを乗り入れるのも良太にとっては大変な仕事だった。クラッチを何度も切り替え前進後退を繰り返しながらトラクターを田んぼに対して垂直に方向転換する。ちょうどトラクターの幅だけコンクリート管を埋めて渡れるようにしてある水路をクラッチをローに入れてゆっくり乗り越えていく。もし極端に左右に揺れたとしたら、トラクターは横転して良太の身体は潰されてしまうだろう。農業とは危険と隣り合わせの仕事なのだと改めて良太は考えた。水路の乗り越え方を知るのには、田んぼを貸してもらうお礼にと親方に渡した日本酒が役に立った。

「まあ飲んでいけよ」

妻と娘の三人暮らしなので、親方は一緒に飲める男として良太の存在がうれしかったようだ。その日、良太は陽子の家に泊まり、その後もわからないことがあると、週末に酒を持って親方を訪ねた。そして、なし崩し的に泊めてもらっては翌朝棚田に直行するようになったのだった。良太が米を作ったのは農家に勤めた1シーズンだけだった。当たり前だけれど、米作りは一度や二度で全てを身に付けられるほど甘いものではない。酒を飲みながらの質問に嬉しそうに米作りを教えてくれる親方の存在も良太にとって大きなものだった。ある日のこと、良太が初めての代掻きに悪戦苦闘していると陽子が親方を連れて現れた。

「このへたくそ。代われ」

口悪く言うと、良太をどかして親方はトラクターに乗った。狭い田んぼとは言え、親方はそのまま三枚のたんぼを代掻きしていった。

「やり方わかったべ?」

トラクターを降りると親方は振り返ることもなく、山道を降りて行くのだった。良太は親方の背中に向けて頭を下げた。

しばしば水が抜けてしまうものの、世間から2週間ほど遅れて良太は田植えを開始した。予め親方に頼んでおいたダシ10枚分の苗は、既に大きくなり窮屈そうにあえいでいるようだった。こうなると茎が太すぎて田植え機を使うことはできない。良太は度々痛む腰を伸ばしながら自らの手で田植えをしていった。流石に週末だけでは終わらず、勤めている工場に頼んで有給をとらせてもらうのだった。そんな理由で休ませてもらえるものかといぶかる中、直属の上司はあっさり許可してくれた。

「田植えの時期は仕方ねーのよ」

米作地域ならではの恩情に、そこでも良太は頭を下げるのだった。

もう一つ良太にとって大事な仕事があった。蛍の幼虫の餌になるカワニナとヒメタニシを水路と田んぼで育てることだった。これだけは陽子の一家に見られまい。残業の無い日の夜にこっそりと棚田にやって来ては、きれいな水を選んでカワニナとヒメタニシを放すのだった。街の明かりから離れた暗闇の中、舞い飛ぶ蛍の幻が良太の目には見えているのだった。

(つづく)

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